私が東大を卒業したのは1986年のことですから、今(2026年)からちょうど40年前のことになります。受験したのは更に4年前です。もう遠い昔のことですから、私の考えは、今の若い人たちとは全く違う「古臭い発想」になっているかも知れません。それでも、入学試験の本質は、今も昔も変わらないと信じて、この一文を書きました。前半では英作文問題、後半は要約問題を取り上げます。
1 英作文問題
和文英訳は「英作文」ではない
最近の東大入試の英作文問題は、60~80語で与えられたテーマについて論じる自由英作文と日本語の文章の下線部を英訳する和文英訳問題によって構成されているようです。私の考えを言わせてもらえば、前者は間違いなく「英作文」ですが、後者は「英作文」ではありません。「英作文」は英語で何ごとかを表現することのはずで、そもそも書く内容が予め100%決まっている「作文」などあり得ません。ただ、こういう「作文」という言葉の使い方は英語に限った話ではなく、「スペイン語作文」と言えば和文スペイン語訳のことだし、「フランス語作文」と言えば和文フランス語訳を指すというように、外国語学習全体に共通する通弊です。
おそらく「Composition」という言葉を「作文」と訳してしまったことが問題なのでしょう。当然のことながら英語圏の学校での「Composition」の授業は良い英語を書くための訓練ですし、フランスの学校での「Composition」は洗練されたフランス語を書くための訓練です。日本語の「作文」も英語・フランス語の「Composition」も、本来自国語の優れた文章を規範として自国語の表現力を鍛える訓練を意味します。であれば、「英作文」は日本人或いは全ての非英語話者にとっても、優れた英語の文章を規範にして自分の英語の表現力を鍛える訓練であるべきです。もちろんいきなり超一流の英文が書けるわけはありません。でもそれはネイティブの子どもたちも同じです。ネイティブの子どもたちも、多くは嫌々ながら、学校で「作文」を学ぶのです。
このより良い洗練された英文を書くという訓練が、「ネイティブ」や「使える英語」が過度に強調される中で見失われてしまったのです。
和文英訳は翻訳ではない
また、この「英作文」にはもう一つ別の問題もあります。「和文英訳」としての「英作文」は「翻訳」でもないのです。「翻訳」というのは、そもそも文化的なバックグラウンドが違う言語で、如何にして原文の意味内容、含意、無言の前提や雰囲気までを伝えるか、当然完全には伝わりませんから、何を伝えて何を諦めるかということまで含む非常にクリエイティブな仕事なのです。
翻訳ならば、それを届ける相手と目的によって何をどう伝えるかを考えないといけません。原文に「東京ドーム7個分の広さ」と書いてあるとき、和文英訳問題なら「seven times as large as Tokyo Dome」で正解でしょうが、東京ドームを知らない人には何も伝わりません。さりとて、何㎡とか何平方マイルなどと面積を書くと、筆者が広さを強調したがっていることが伝わりません。スペースに余裕があれば、「Japanese speakers like to use the comparison with Tokyo Dome when they want to emphasize the largeness of the subject,」などと注を付ける手もありますが、スペースに余裕のない小さなリーフレットの中なら、より世界中に知られた競技場と比べるか、正解的に規格が同じ400mトラックと比べるか、或いは諦めて「とても広い」とだけ書くか、様々な考えられる選択肢の中から選ばないといけません。翻訳が非常にクリエイティブな仕事だというのは、こういうことなのです。
しかるに、和文英訳とは、そうした文化的バックグラウンドまで立ち入らない単なる「言い換え」に留まります。「最年長のメンバーがグループの代表に選ばれた」という和文は、「The oldest member was chosen as the group’s representative.」とでも訳せば「和文英訳」的には正解でしょうが、日本語では「最年長だから」代表に選ばれたというニュアンスが強いのに比べて、米国人がこの英文を読めば代表に選ばれた人がたまたま最年長だった」としか受け取りません。
「英作文」の問題点
この「作文」でも「翻訳」でもない和文英訳は、日本語で言えることが全て英語で言え、英語で表現できることが全て日本語で表現できるかのような誤解を与える点でも、罪が深いです。最近は「瞬間英作文」という取り組みが広く行われているようですが、少なくとも私には意味があるとは思えません。出鱈目でもとぎれとぎれでも良いから、日本語を介さずに、初めから「自分のできる英語」の文章で表現して、それを少しずつ「良い文章」にしていく努力こそ、結局は一番効率的な方法なのです。実は難しいことではありません。何故なら、和文英訳でない以上、自分の言えないことは無理に言わなくて良いし、無理だと思ったら「言いたいこと」を変えてしまえばよいのですから。
2016年の東大を見たら、和文英訳の問題は一つもなく、自由英作文が一つと、二段落目まで書いてある文章に論理的な帰結として第三段落を追加する問題になっていました。こういう良問が大学受験の世界で、もっと増えていくことを願ってやみません。
2 要約問題
要約問題の解き方
私が東大を受験する以前から今日に至るまで、東大は入試で400語くらいの英文を読んで、70~80字の日本語で要約させるという問題を出し続けています。私たちの頃には「英語の2番」として受験生の間で有名だった(最近は1番になっています。)この問題は、多くの受験生から「楽勝問題」、「得点源」として歓迎されていました。何故なら、「英語ができなくても解ける」からです。
どういうことかと言えば、「英語ができない」とはいっても東大受験生の話ですからかなりの語彙力はあり、文章をざっと眺めてキーワードになっているらしい言葉を抜き出してくることは比較的容易にできます。また、文法ももちろん分かっていて、全体としての論理構成が順接的に進んでいるのか、逆説的に進んでいるのか、はたまた仮定的に進んでいるのかということも見て取れます。後はそこから大胆な想像力を駆使して文章が何を言っているかを推測し、70~80字の日本語で書きます。(指定された字数の文を書くことについては、東大受験生はこれでもかというほど訓練されています。)こうして、「英語ができなくても」、「英文を読まなくても」満点ではないまでも何ほどかの点数は取れるということになるのです。
「仮説思考」としての問題対処法
「推測」というと聞こえが悪いですが、要は文章中の最小限の要素を拾い出して、文章の内容についての「仮説」を立てているのです。しかも受験生は、東大の過去の出題傾向を綿密に調べ、東大が受験生に何を求めているかについて自分なりの「仮説」を持って臨んでいますから、仮説が的中する確率は、名探偵コナン君ほどではないにしろ、かなり高くなります。東大が、今もこの問題を出し続けているということは、そういうタイプの学生を是としていることを示していると思います。
今の時点で受験体験を振り返る
さて、自分たちがこの英語の要約問題に「英語ができないけど得点できた」のではなく、「仮説」を駆使して英語をモノにすることこそが「英語ができる」ことなのだと気がつくまでに、私は40年近い時間を要しました。若い頃の私は、ご多分に漏れず、「ペラペラ」になること、考えずに使えること、ネイティブのようになることが、「英語ができる」ことだと信じていましたから、この問題は「英語ができないけど解けた」のであり、「自分は英語ができない」のだと信じて、英語と無縁の生活を送っていたのです。
考えてみれば、東大は多くの学者・文化人・政治家・経済人を輩出し、その中には非常に堪能な語学を駆使し、時には何言語も操って国際的に活躍人が少なくありません。私は今、そうした人たちの多くが、「英語脳」を鍛えたり、「シャドーイング」の特訓をしたりするのではなく、私が提案しているような仮説検証型の語学習得法を、恐らくは私より上手に使って堪能な語学力を身につけたことを疑いません。英語コーチとしての私がやろうとしていることは、私自身が何かたいそうな発見をしたのでは全くなく、昔からの「東大式」語学習得術を時代に合わせて幾分カスタマイズした上、誰にでも実践可能な方法論として、皆さんにお伝えしようとしているに過ぎないのかもしれません。

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