私の語学遍歴—50歳まで英語とすら無縁だった私が、海外勤務を経て5言語を習得するまで

私の語学遍歴の途上でたどり着いたニューヨーク

現在、英語コーチとして大人の学び直しを支援しています。
しかし、私は50歳まで英語とは全く無縁でした。

「英語ができない」と思っていた頃

学生時代

 私は長い間、自分は「英語ができない」ものだと思っていました。学生時代には「英語ができるようにならなければいけない」というプレッシャーだけは強く感じていて、読みもしない読めもしない英字新聞を延々と取り続けたり、英会話学校に通ってみても全然上達感がなくてやめてしまったりしました。その後地方公務員になり、仕事で英語を使うことは全くありませんでした。

30代の挫折

 30代の半ばの頃、新しく開業する鉄道会社に派遣されます。そこで私は、ソウル市役所からの英文の手紙を受け取りました。ソウル市の副市長が日本を訪問する際に、その会社にも立ち寄って話を聞きたいという趣旨の依頼でした。当時はまだメールすらなかった時代で、日程調整のためには電話をかけるしかありません。何とか話すことを用意して電話を掛けたものの、電話口の向こうで「He is not here now.」と言われた瞬間、頭が真っ白になりました。先方の担当者がいないと聞いた瞬間に固まってしまい、一言も言葉が出なくなったのです。担当者と話すことは考えていたものの、いなかった場合に何というべきかは全く準備していなかったからです。この経験があってから、わたしはますます英語に苦手意識を持つようになりました。

伊豆大島での転機―国際優秀つばき園

 しかし、50歳の時に転機が訪れます。きっかけは、東京都大島支庁長として、伊豆大島という離島に赴任したことでした。

土砂災害後の伊豆大島

 伊豆大島は、東京から南に約130㎞、太平洋に浮かぶ火山島です。昔から椿の名所として知られ、かつては観光地として絶大な人気を誇った時期もありました。私が、東京都大島支庁長として赴任したのが、2014年の4月。その半年前に36名の方が犠牲になる大規模な土砂災害が起きたところでした。私が赴任した時点では、まだ瓦礫や流木があちこちに積まれ、半壊の家がそのまま立ち並び、道路も港湾も完全には復旧していませんでした。支庁長として復旧・復興に当たる一方で、何か島の人たちを勇気づける明るい話題が作れないかと思っていたところ、「国際優秀つばき園」の認定を取ってはどうかと提案してくださった方がありました。

国際優秀つばき園

 国際認定を取る以上、英語は当然必要になる訳ですが、当時支庁にSさんという女性職員がいて、外国語大学の出身で英語が堪能でしたので、彼女がいれば何とかなるだろうと思って、プロジェクトを立ち上げました。認定の対象となったのは、都立大島公園、都立大島高校、椿花ガーデンの3施設です。

 国際優秀つばき園は、国際つばき協会という団体が、現地出身の理事と他の国の理事とがそれぞれ審査に当たった上、団体の理事会で決定されます。申請書は、支庁で日本語で制作したものを国際つばき協会の日本理事を務めた方が翻訳してくださったのですが、問題は審査です。英国からやってくる審査員ジェニファー・トレハーンさんを、とにもかくにも案内し、各施設の説明をして、好印象を持ってもらわないといけません。審査の準備を開始した時点では、Sさんのほかに英語に堪能な職員が4、5人加わってくれて心強く思っていたのですが、いざ準備を始めてみると思いのほかにやることが多くて、通常業務をこなしながら国際優秀つばき園プロジェクトの方もこなすのは、並大抵ではないことが分かりました。職員のこれ以上負担をかけられないと判断したところで、私は自ら英語で審査員と対応することに決めました。

3か月の準備でプロジェクトを成功させる

 3つの認定候補のうち都立大島高校には、当然英語の先生もいらっしゃるし、米国人ALTのジェームズ君もいるということで、英国人の審査員への対応は全部お任せして、大島支庁では、自ら管理する都立大島公園と実質的に社長の山下さんが一人でやっている椿花ガーデンの2か所についての英語の説明を作ることにしました。それだけでも非常に大変で、職員に任せられるのはそこまででした。

 しかし、こちらからの言わば公式の説明以外にも、行程の説明とかメンバーや島の関係者の紹介など言わなければいけないことがありますし、案内の途中で質問されたことには答えないといけません。また、町長・町議会議長以下町の有力者、椿関係者に出席をお願いして歓迎パーティをやったので、その場での司会原稿やスピーチの翻訳など、準備すべきことは次々に出てきます。更に、私がパーティの主催者なので、冒頭で趣旨説明を含めてスピーチをする必要があります。そういう部分については基本的に自分で何とかしようと努めました。

「英語ができないまま乗り切る」

 作戦は明確です。「英語ができないまま乗り切る」、それだけでした。ジェニファーさんが審査にいらっしゃるのが10月、準備を始めたのが7月。英語の勉強から始めていたらとても間に合いません。とにかく、言わなければいけない可能性のある表現を全て列挙し、こういう場合はこうする、こういう展開になったらこう対応するというシュミレーションを行っておいて、兎にも角にも相手とのやり取りをしている格好になれば、外見的には「英語ができる」のと同じだろうというのが、自分の心づもりでした。目的はあくまで審査をパスすることであり、英語はそのための手段に過ぎないので、「できるふり」で全く構わないという割り切りが、結果的に成功だったのだと思います。

 ただ、その3か月間は隙間時間があれば、朝から晩までずっと英語のことを考えている状態でした。そうすると不思議なもので、学校で習った英語が次々に記憶に蘇ってきます。学校での英語の成績は悪くなかったのですが、30年も経ってからこんなに鮮明に記憶が蘇るものだとは思いもしませんでした。

「英語ができる」人になる

 皆さんは何年何月何日に英語ができるようになりましたか?私の場合は、2015年10月17日でした。

 結果として、審査員のジェニファーさんには非常に高い評価をいただき、国際優秀つばき園の認定に向けて大きく前進することができました。小さな島のことですから、翌日には「赤木支庁長は英語がペラペラだ」という噂が島中に伝わって、今日から自分は「英語ができる人」として生きていくことになるんだと思った時には、なんとも不思議な感覚でした。それが、2015年10月17日のことでした。

 私は、「英語ができる」ようになるとは、一面でこういうことではないかと思っています。自分が「英語ができる」かどうかは他人が判断することで、自分がある時点で自覚するようなものではないのではないかと。自分にできることは、地道に着実に自分の能力を高めることだけです。しかし、他人から「英語ができる」と思われたらそれなりの責任が生じます。それこそが、「英語ができる」ようになったということなのです。

 さて、翌年の3月には、中国の雲南省大理市で開催された国際つばき大会に、3つの認定取得を目指す伊豆大島から8人が参加しました。そこで私たちは、参加者に対して積極的に話しかけ、伊豆大島の椿がどれだけ素晴らしいか、宣伝に努めました。その結果、全世界から訪れたつばき愛好家50人ほどと名刺交換をすることが出来ました。更に、8人のうち3人がプレゼンテーションに登壇し、盛大な拍手を受けることになりました。そんな努力の甲斐もあって、伊豆大島の3つのつばき園は揃って、国際優秀つばき園の認定を受けることができました。

 自分としては、これで再び英語と縁のない生活に戻るものだと思っていましたが、そういう訳にはいきませんでした。中国で知り合いになった世界中のつばき愛好家から、実に頻繁に相談や照会が舞い込むようになりました。その都度英語で応答するだけで、かなりの頻度で英語を使うことになります。さらには、嬉しいことではあるのですが、伊豆大島に関心をもってくださった方で、海外からわざわざ島を訪れてくださる方まであって、その準備と案内に終われたりもしました。そうした過程を通じて、「英語ができる」ことでどれだけ自分の世界が変わることになるか、身に染みて知ることになりました。

 しかし、まだ話は終わりではなかったのです。東京都の人事当局から、そんなに英語を使いたいならアメリカに行ってこい、という思いもよらぬお話をいただき、私はニューヨークへ旅立つことになったのです。

Japan Local Government Center New York

 私は、2018年4月から2020年4月に至る約2年間を自治体国際化協会ニューヨーク事務所長として過ごしました。「自治体国際化協会」と言っても何のことか分からないので、事務所の英語名称は、Japan Local Government Center New York(略称JLGCNY)となっていました。昔は、東京都を含め自治体単独で米国に事務所を設けている所もかなりあったようですが、私が赴任した時点では片手で数えられるほどしかなく、事実上JLGCNYが、日本の全自治体共同の米国事務所(厳密に言えばカナダも所管していたので「北米事務所」というべきですが)として機能していました。実際、事務所について説明するときにはいつも「The only representative office of all Japanese local governments in North America(北米における日本の全自治体を代表する唯一の機関)」という表現を使っていました。

 さて、そうなると扱いとしては、全自治体の北米代表部ですから、現地では非常に重要で格の高い機関として扱われます。そのため、そのトップである私は、ニューヨークで行われる日本関係のイベントやReceptionに頻繁に、言わば来賓としての扱いで招待されることになります。多い時は週3回、少ない時でも1回はReceptionに参加する日々でした。

 事務所の本来の役割は、日本の自治体が北米地域で国際交流をしたいとか、産品のプロモーションをしたいとか、政策調査をしたいとかの場合に、現地にいてその便宜を図ることで、だからこそ日本国民の税金を投入して運営されているのですが、私の在任期間に限って言えば、日本の自治体の北米に対する関心よりも、北米の自治体、そして自治体に限らない企業・団体の日本の自治体に対する関心の方がはるかに高く、正直、私が扱っていた事案の大半は、米国側から日本の自治体へのアプローチをサポートする仕事でした。尤もこれには、米国では「担当」だの「窓口」だのを介さず、直接トップに連絡してくるのが通例だということも関係しています。日本の自治体は担当の職員に連絡してきて、米国人は私に連絡してくるので、私の扱う事案には米国側のものが多くはなるのですが、事務所全体で見ても、米国発の事案が半数を超えていたと思います。

 それにしても、曲がりなりにも「政府機関のトップ」の立場で仕事ができたことは、私の米国に対する認識を深める意味で本当にありがたかったと思います。たくさんの重要なポストにいる方々とお話しする機会を得られましたし、何しろ私に情報が集中する構造になっていましたから、そうでなければ得られないような貴重な知識をたくさん手に入れることができました。反面、自分がどれだけ日米の地域レベルの交流に実質的に貢献できたかと言えば、正直悔いが残ります。

語学のスペシャリストになる

 事務所には米国人スタッフが2名と日本各地の自治体から派遣されてきた日本人スタッフが10名ほどいます。そして、日本人スタッフの英語能力を向上させることも、所長である私のミッションでした。これはなかなか困難な仕事でした。アドバイスをしたり、チャンスを与えたり、勉強できる場所を紹介したり、できる限りのことはしたつもりですが、なかなか目覚ましい成果があがりません。結局最終的にはある程度の成功は収めたものの、自分としては、不満の残る結果となりました。しかし、そこで徹底的に語学の習得法について考え、さまざまなことを試行してきたことは自分にとって大きな財産となりました。

 2020年4月に帰国してから、現地で語学習得法に取り組んだ成果を一つのメッソドとしてまとめる作業に取り掛かります。そして、自分のメソッドが本当に語学習得に有効かどうかを確かめるために、自分でスペイン語、イタリア語、フランス語を一から学習してみることにしました。試行錯誤を経て出来上がったメソッドのおかげで、いずれの言語も1年で何とかネイティブと話ができる程度までには習得することができたので、今では自分のメソッドの有効性を確信しています。

 そして、東京都を定年退職したのをきっかけに、英語で困っていらっしゃる方の支援を自分の仕事にして、今日に至っています。

 このnoteでは、本業の英語の話ももちろん書きますが、むしろ、思想的社会的な問題についてAIを相手に議論した成果を、「AI対話篇」としてご紹介することに力を注ぎたいと思っています。それは取りも直さず、私が「議論好き」であることの証明でもありますから、ご批判を含めて、率直なご意見をいただければ幸いです。

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